<匡庭>


 板張りの長い廊下を歩く。古い見た目に反して、その床は軋まない。
 手入れの行き届いた廊下を歩きながら貴一(たかひと)は屋敷の一室を目指す。
 静かな空気が満ちている屋敷は広い。貴一の家『近衛』は元を辿れば名のある華族に辿り着く。旧華族なだけあって屋敷は立派だったが、今は没落して昔からの『つて』を使って金を儲けているだけの家だった。
 昔は多くの住み込みの使用人を抱えていたであろう屋敷もがらんとしている。今この屋敷で生活しているのは貴一と年の離れたその妹の小夜(さよ)だけである。
「小夜、入るぞ」
 襖を二、三度叩く。
「どうぞ、お兄様」

 襖を開けると部屋の真中に少女が居る。敷かれた布団の上に座し、文机に向かっていた。
 齢一七、八の少女、小夜は入ってきた兄にニコリと微笑みかける。しかし、年の割りに二、三歳幼く見える。
 殊更白い肌に深い黒の色をした長い髪が良く映えている。幼いながらも整った顔立ちが、それを更にひきたてていた――
「今夜は調子がいいのか」
 貴一の声に小夜は「はい」と耳障りの良い声で応えた。
 ――しかし、小夜の肌の白さには理由がある。
 小夜は幼い頃から体が弱く、日の光に当たることがあまり出来ない。よほど体調が良いときでなければ外出は不可能なのだ。その“体調の良いとき”も近頃めっきり見られていない。
 どか、と小夜の横顔を見詰める位置にあぐらをかく。畳の冷たさが着物の生地の下から肌にじんわりと染みてくる。
「寒くないのか?」
「ご心配なく。冷えたら、このお世話になりますので」
 小夜の視線の先には、古風な部屋には不釣合いな現代品の電気ヒーターが置いてあった。今は電源こそ入れられていないが、そろそろ世話になっても良い時期に入ってきている。
 貴一はまだ使っていないが、小夜には少し遅すぎるくらいかもしれなかった。
「注意しろよ。最近は朝夕めっきり冷え込むからな」
「もう秋ですしね」
 何処か嬉しそうに黒髪の少女は言う。
「この時期は身体に障る。気をつけろ」
「それはお兄様にも言えることですよ」
 小夜の言葉に貴一は顔を僅かにしかめた。
「俺は大丈夫だ。朝夕の冷え込みより、仕事で寄って来る俗物どもの相手のほうがよっぽど毒だ」
 身体にも心にもな。と吐き捨てた。
 現近衛家の当主は貴一だった。当主と言っても大したものではない。ただ二人を残して早くに死んだ両親から相続させられた財産と、近衛がかかわる会社の仕事の処理をするだけの役目しかない。
 貴一からしてみれば、どれも下らないものだった。しかし、仕事をしなければ生きていけないという点でしぶしぶ仕事をしている。
 厭な顔をしている貴一を見て小夜の顔が悲しそうにうつむいた。
「ごめんなさい…。私がこんなでなければ多少なりともお手伝いできていたはずなのに……」
 申し訳ない気持ちで押しつぶされるように、その語尾は小さくしぼんでいく。
 小夜のその様子に貴一は心の中で自分の失態を悔いた。
「馬鹿言うな。たとえお前が望んでもあんな奴らと関わるような仕事を、誰がお前にさせるか」
 さっと立ち上がる。
「ぁ……お兄様…………」
 淋しげに揺れる小夜の黒い瞳。
 貴一は部屋に入って初めて微笑んだ。小さな微笑みだったが、それは妹の小夜には十分価値があった。
「ああ、解かってる。しかし、いいのか?読書の途中なら――」
「いいえ。もう、今夜はこれまでと思っていましたから」
「そうか?」
 文机を布団から離して居住まいを正す小夜に近づく。
「あ、お兄様」
 何かに気付いたように小夜は声を上げる。
「どうした」
「障子を、開けてくださいませんか?外の空気を吸いたいので」
「…………」
 貴一はつい渋い顔をして小夜を見た。
 しかし、すぐに折れる。
「仕方ないな。しばらくの間、だからな」
「はい」
 さっと障子と窓を開ける。
 とたんに冷たい秋風が流れこんでくきた。
 ついつい無意識の内に着物の襟を寄せる。
「寒いなら、ヒーターを付けるが?」
「大丈夫です。それよりもお兄様、早く」
 子供が遊びを焦がれ急くように目を輝かせる妹。
「冷えるといけないから、膝に布団をかけておけ」
「はい」
 言われた通り、小夜はかけ布団を一枚膝の上に載せる。
 貴一はその間にいつもの定位置に付き、座した。見えるのは腰まで伸びた小夜の黒髪。
 懐から漆塗りの黒い櫛を取り出し、そっと、少女の髪を梳っていく。それは止まることなく流れる。
「相変わらずだな」
「毎日こうしてお兄様に梳いてもらっているからです」
 無愛想な貴一の誉め言葉に小夜は微笑む。
 少女は目を閉じ、兄に髪を梳いてもらっている感触を楽しんでいるようだった。
 それは貴一と小夜のずっと続けられている日課。もういつからやっているか解からないほど幼い頃から続けている。毎夜毎夜、小夜が眠る前に貴一が彼女の髪を梳いてやっていた。それは、二人が大きくなった今も変わることはない。
 幸せな一時。しかしその実、心の中はとても辛かった。だから貴一はその黒髪を一度梳るたびに、思いを込める。
「いい風ですね……。金木犀の香り……ですね、これは」
「そうなのかな」
 貴一は少し困ったように応える。
 その様子に小夜は気付いて小さく笑った。
「お兄様には解からないかもしれませんね…。私は、金木犀が大好きなので香りもすぐに解かるんですよ。もう、花も付けているはずですし」
「……よく解かるな」
 金木犀は、既に小さい橙の花をつけている。そばに寄ればその香りも確かに匂った。しかし、貴一にはこの部屋からはよく解からなかった。
「庭に植えられた山茶花(さざんか)も牡丹(ぼたん)も蝋梅(ろうばい)も雪柳(ゆきなやぎ)も桜草(さくらそう)も鈴蘭(すずらん)も槿(むくげ)も……他の草花も好きです」
 小夜の口から紡がれる庭に植えられている草木花の名前。もう花の見頃の時期を過ぎたり、まだ先のものもある。しかし四季を通して楽しめるようになっていた。庭造りに凝っていた二人の祖父の遺産である。
 庭では石灯籠に灯りが入り手前のベニシダレが淡く照らされていた。そこには沈丁花(じんちょうげ)が添えられるように植わっている。
 今は暗くて見えないが、雲のない満月の日などは庭が美しく照らし出される。
「……庭師に感謝だな。草木いじりなんか役に立たなそうだが、どうしてなかなか重宝するものだ」
「ふふっ、そうですね……」
 さっ…、とまた櫛が通る。

「それじゃあ、おやすみ――」
 ぱたん、と襖を閉じ貴一は小夜の部屋を出た。
 その足でまっすぐ自室へ向かう。
「くっ―――――!」
 小夜の部屋から十分に離れた場所で、壁に手をついた。
 歯を食いしばり顔が激しく歪んでいる。
 ――果たして、あと何日こうやって小夜と過ごせるだろうか。
 余命幾許の妹を思うと無力な自分が、悔やまれた。
 小夜のあの笑顔を見るたびに、心が痛む。
 ――小夜は自分の寿命を知っている。
 余命の宣告をされたのはもう一週間は前。もともと小夜は今の年齢まで生きられるとも思われていなかった。だから、いつ死んでもおかしくないと言うのは百も承知だった。
 しかしそれでも、貴一にとって医者の言葉は自分の死刑宣告にも等しかった。
 人は必ず死ぬ。それはどんな金持ちでも、偉い君子にでも、当然自分のような凡人にでも等しく訪れる現象だと理解していた。勿論、小夜もいつかは――と覚悟をしていた。だが両親の忘れ形見である小夜の死を目の前にするとさすがの貴一も目の前が真っ暗になるようだった。
 その夜、小夜はあっさりと貴一の異常に気付いた。そしてあっさりとこう言ったのだ。
『私は、後どれくらい生きられるんですか?』
 貴一は言葉に詰まった。手に持っていた櫛を落してしまいそうになるほど動揺した。
 小夜は貴一に向かい合って、優しく瞳を微笑ませる。
 貴一は自分の心の弱さを呪い、恥ずかしく思った。
『もって、あと二週間、だと…言われた』
『そうですか』
 小夜は微笑みを崩さない。
 しかし、その目には涙が浮いていた。
『いつかはと覚悟しておりました。そうですか………あと二週間』
 小夜の声が震えていた。しかし、泣いていない。
『二週間も、まだ時があるのですね……ふふっ、お兄様、そんな顔をしないでください。まだ二週間もあるのですから』
 ――あれから、もう一週間は時間が経った。正確には今日を含め一週間と二日。
 残る時間は良くて五日。悪ければ明日には消える命の灯火である。
「――おれは、俺はいったい何をしてやればいい……っ!何をすれば、あの小夜を喜ばせてやれる……!?」
 死を目前に控え、それでいて何も望まずただいつも通りに微笑んでいる妹に。
 いっそ、小夜が我侭を言ってくれればと思う。そうすれば、今まで優しく接することが出来なかった分、近衛家に残る財産をなげうってでもその我侭を叶えてやるというのに。
 だが、小夜は何も望まない。何も望まないどころか、下手に優しくしようとすると苦笑いして「いつも通りがいい」と言っていた。
 自分の布団に入り、目を瞑る。
 今まで、小夜に対して何かをしてやれたという実感がない。幼い頃からの習慣で毎夜髪を梳きこそすれ、それは身体に染みついたただの習慣だった。
 しんと静まり返った部屋。
 敷地から出てしばらく歩けばすぐに貴一の厭う人の喧騒がある。貴一は、人嫌いではない。ただ、好きでもない。それは幼い頃から父親に付き添い、人の汚い部分をいろいろな見てきたためかもしれなかった。祖父も、庭をいじることと孫の貴一を可愛がることのみを唯一の安らぎとしていた節がある。人と付き合うことに疲れ老衰した祖父は日がな庭の手入れをし、実の息子である父よりも孫を大事にしていた。
 今思えば、父を相手にする時は仕事の話の時だけだったかもしれない。実の息子さえ仕事の一部になっていたのだろう。  ――哀れだな。
 貴一は口の端だけで小さく嗤う。
 しかし、貴一自身自らを省みればその嘲笑は自嘲へと変わる。
 実の妹に何一つしてあげることが出来ない。人並みの優しさを与えて上げられたかどうか、そして今与えてあげられているかどうか自信がない。
 大学を卒業するまでは、同い年の人間とも過ごしてきた。きちんと大学まで卒業することが家督を継ぐ条件として父の遺言で残されていたので、大学に通っていたのだが到底気持ちの良い場所だとは思えなかった。
 貴一は大学を欲にまみれた人間どもが集う場所だと認識していた。教授も自分の出世を考え他人の研究を盗んでいっていたし、学生も同じで気分が悪かった。大学入学当初は、いったい何処で情報をし入れてくるのか、明らかに貴一の財産を目的に寄って来る女性も後を絶たず、辟易していた。
 しかし、卒業する頃には貴一は“『人間』嫌いの冷たい『人間』”と称されて、変わり者がちょっかい出してくる時以外は誰も寄りつかなくなっていた。貴一も、誰が考えたのか皮肉の効いた巧い誉め言葉だと笑った記憶がある。確かに自分を含めた『人間』が嫌いだと思われても仕方がなかった。
 ――小夜も、きっとそう思っていたかもしれない。
 そこでふとあることに気付いた。
 ――もしかして、俺は今まで優しく出来なかったことに対する罪滅ぼしをしたいのか?
 贖罪として、優しく接しようとしていると見えなくもない。
 ――もしそうなら途方もなく愚かで、滑稽な兄だ。
 貴一はおかしくなって、ククク、と喉の奥で笑った。

 使用人に朝食の準備をしてもらっている間に、貴一は小夜の部屋へと向かう。
「小夜、起きているか」
「………………」
「小夜?」
 果ての見えない闇のような不安が胸の中に満ちていく。
 貴一は襖をそっと開けた。
 静かに畳の上を歩き、小夜の寝顔を確認する。
 生きていることを証明するように、静かに胸が上下していた。そのことが貴一を安心させる。
 しかし同時に大きな不安を抱かせる。ここのところ、今までのように朝起きられなくなっている。
「小夜……」
 ぽつりと口から名が漏れる。
「……………」
 その小さな声に呼ばれるように小夜の目が、ゆっくりと開く。
「…………おにい…さま……」
「すまない…。起こしたな」
 まだ寝惚けているのか、焦点をはっきり結んでいない目で貴一を見詰め微笑む。
「いいえ……。もう、起きようと思っていましたので……」
「そうか……。大丈夫か?」
「……はい」
 二呼吸ほどの間があった。寝起きとは言え、貴一はその間が恐ろしくなる。
「まだ眠りたいのなら、構わないぞ。お前の分の朝食も時間をずらさせる」
「ふふっ…心配なく。今、起きますから……」
 そう言うとゆっくりと小夜は上半身を起こす。
「年頃の女の子としては恥ずかしいですね、お兄様に、寝顔と朝一番の顔を見られるのは」
 楽しそうに、何故か嬉しそうに小夜は笑った。
「――悪い。気が回らなかった、明日からは……」
 慌てる貴一に小夜は首を振る。
「朝の目覚めは、お兄様の声と決めていますから。他の方を遣わされても、私、起きませんからね」
 悪戯気に微笑む小夜に貴一は複雑な気分ながら内心でホッとしていた。

 午前中は自室にこもり、使用人がする掃除の音を聞きながら書類に目を通すのが日課になっている。昼食は小夜の部屋で取り、また仕事をする。しばしば会社の重役達がやってきたりもするが、最近は小夜のためにも来るなと厳命してあった。
 彼らの中には、もう落ちぶれているとは言え、近衛の姓をもらうために自分の娘を貴一に嫁がせようと考えて貴一を不機嫌にさせる者もいる。間違ってもそんな者達を小夜と会わせる気はさらさらなかった。
 お昼、貴一が仕事部屋から出ると、小夜が廊下を歩いているのが目に入った。
「小夜、大丈夫なのか……!?」
 壁に手を当てながらであるが、ゆっくりと歩いている。
 小夜が振り返ってにこりと微笑む。
「はい。今日は、ちょっと外に出てみようかと思いまして……」
「外って、お前…」
 よほど体調が良くなければ外に出る事は許されていない。
「金木犀を、見たいのです。花が散ってしまう前に」
 小夜の笑顔が貴一の目を見詰めた。それだけで、貴一は何も言えなくなる。
「――俺が付き合ったら、まずいか?」
「いいえ。ですが、お仕事は?」
「構わん。どうせ一区切りついてるんだ」
 少女は兄の言葉にとても嬉しそうに微笑んだ。
 庭に面する板張りの廊下から、下駄に足をかけ貴一は外に出た。一足先に小夜は外に出て貴一の目の前で感慨深そうにしている。
 高い所から降り注ぐ日の光に小夜は眩しそうに、しかし嬉しそうな顔で目を細めた。
「日傘くらい差したらどうなんだ」
「いいえ。要りませんよ。私は日の光を浴びたいのです」
 一体いつぶりになるか解からない日光浴を楽しむ小夜。
 貴一は着物の袖を合わせてじっとその様子を見ている。
 広い庭にはいろいろな草木が植えてある。
 小夜が好きと言う金木犀もある。貴一の目に映るものでは低く横に伸びた黒松の後ろにそれが一つ植えてある。
 乱張りの敷石の上を下駄を鳴らせながら小夜の後をついていく。
「暖かいですね……」
「ああ、そうだな。今日はいい日和だ」
 貴一は空を見上げる。
 青い空に薄く白い筋上の雲が遠くに見えた。しかし、視界の端に映る物に不快そうに眉根をしかめる。
「……これだけの綺麗な空に、電線は似合わんな。不釣合い過ぎる。いっそのこと道路に埋めてしまえば良さそうなものを」
「そうかもしれませんね。でもそうしたら、生きている時代を間違えてしまいそう」
「ありえる話だ」
 敷石から外れ小夜は庭の中央に歩いていく。
 その足取りに不安はない。
 緑の中には紅葉を始めている木もある。調和の取れた配置に、祖父に対して一種の尊敬を覚える。ただの余生の慰みとしてやっていたには実に手が込んでいた。そのおかげで、こうして小夜が羽を伸ばせている。そのことについては感謝していた。
 深く深呼吸をする。
 都会には珍しい、草木の匂いがする。
 自分に風情を解する心はないと思いながらも、貴一はその香りの中に“秋”を感じた気がした。
 小夜は生を謳歌する植物に微笑んでいる。
「あまり無理をするな」
 貴一は敷石から外れることなく小気味良い音をさせながら歩いていく。  屋敷を囲むようにしてある庭を少し回ると、ちょうど小夜の部屋から見える風景に出た。石灯籠が緑に隠れ過ぎないように置かれ、垣根には金木犀が植えてある。少し離れた場所にいる貴一からも緑に混じって、小さな橙の点が多く見えた。
「いい香り……」
 小夜が金木犀の花に顔を近づけて、目を閉じる。
 その様子を後から眺めていると不意に、小夜の華奢な身体がぐらりと傾いだ。
「――!!」
 その身体が地面に着く前に、貴一が抱きとめる。
 小夜の白い顔が青くなっていた。
「小夜、大丈夫か?」
「ぅ…………」
 まぶたがゆっくりと持ちあがる。呆とした目が貴一を捉えた。
「ごめんなさい…おにいさま……」
 蚊の鳴くような小さな声。
「はしゃぎすぎたな。戻るぞ」
 細い身体を抱えて、静かに踵を返す。
「――――――」
 小夜が名残惜しそうな目を貴一の後、金木犀に向けていることが解かったが気付かないふりをして足早に歩いた。
 屋敷の中に戻り、使用人の女性に薬の準備を頼む。そのまま小夜を抱えて小夜の部屋へ向かう。
 金木犀が見えなくなったあたりで小夜は諦めたように目を閉じていた。
 それが想像の死に顔と重なって、不安が貴一の心の中を静かに荒らしていく。
 寝かせて、布団をそっとかける。
「小夜……」 寝かせて、布団をそっとかける。
 小さく名を呼んでも返って来るのは一定した呼吸だけ。眠っているらしいことを確認して、貴一はその場を離れた。
 寝かせて、布団をそっとかける。


 倒れてから三十分ほどして、小夜の目が開いた。
「気が付いたか」
「はい……」
 その声には庭に出ていた時のような活気がない。
 仕方がないと貴一は思う。恐らくはあれが、小夜の生きているうちで日に満足に当たれる最後の機会だったろうからである。それを小夜も理解しているように思えた。
「薬だ」
 小夜は何も言わず吸い飲みから薬の溶かされた水を呑んだ。
「……ありがとうございます」
 小夜の心ここにあらずといった様子に、小さくため息をついた。
「小夜、気分が優れないのか?」
「――いいえ。もう気分はいいんです。けれど」
 もう少し、金木犀を見ていたかったです。と呟いた。
「……金木犀にこだわるな」
 やれやれと言ったように貴一は呟く。そしてすっと文机に手を伸ばした。
 寝ている小夜からは何をしたか解からなかったはずだが、微妙な香りに目を細めた。
「お兄様……?」
「爺さんには悪いが、少々失敬してきた」
 貴一の手には金木犀の枝があった。
 文机には水の入ったコップにもう一本金木犀の枝が差されている。
 驚いて急に身体を起こそうとする小夜を、ゆっくりと起こしてやる。
 そしてそっと枝を握らせた。
「小夜は、どうしてそんなに金木犀が好きなんだ?香りは確かにいいかもしれないが、小さくて地味だぞ」
 小夜の白く小さな手にある、橙の花をつけた木の枝を見る。
「『理想の恋』『恥じらい』『慈愛』『愛らしさ』『希望』『幸福が訪れる』『繊細な美しさ』……」
 嬉しそうに目を細める小夜は何かの言葉を紡ぐ。
 貴一にはその一連の言葉が何なのかは解からなかった。
「……?」
「この庭に植えられている草木の花言葉です」
「なるほど。と言うことは、金木犀好きは花言葉が原因か?」
 小夜は目を伏せて手の中の金木犀を見詰め小さく頷く。
「『貴方は高潔です』――金木犀の、花言葉です」
「面白い花言葉だな……『貴方は高潔です』か。由来とかあるのか?」
「さぁ……。ですが、金木犀は、空気の汚い場所では花を咲かせないそうです――」
「ああ、なるほどな。確かに花のくせにお高くとまっている」
 しかし、と思った。
「まだ『理想の恋』やら『愛らしさ』のほうがお前には似合ってると思うが?」
「ふふっ、お兄様ったら。そう言っていただけると嬉しいですわ。
 ――ええ、私にはこの花言葉は不相応……」
 小夜はその胸にそっと金木犀の枝を抱きしめる。
「この花言葉は、お兄様に相応しいもの……まるでお兄様のよう」
「――やめてくれ。俺は高潔でもなんでもない、ただの…愚かな兄だ」
「いいえ。お兄様はお兄様です。愚かではありませんよ」
「――」
「だから、私は金木犀が好きなんです」
 小夜の言葉が貴一の胸の奥底で静かに響いた。暗く凝っていたものが、揺さぶられた。

 手に持った、発泡スチロールの箱を置く。
「小夜、身体を拭くが……出来そうか?」
「――はい…」
 昼に動きすぎたのが原因なのか、夕方を過ぎたあたりから更に小夜の体調が悪化した。
 貴一は、留めなかった自分の甘さを悔いた。
 しかし妹、小夜はそんな兄の心を見透かしたように優しく微笑む。
「お兄様…、お願いできますか?」
「……ああ」
 小夜が布団の上に上半身を起こす。そのままするっと腰紐を解き、衣をはだけさせた。
 急いで貴一は小夜の身体が冷えないよう、毛布で包む。発泡スチロールの箱の中から取り出した蒸しタオルを、そっと小夜の顔に当てる。
「熱すぎないか?」
「はい…」
 ふるふると震える睫を見ながら、目許を拭っていく。
 タオルを返し、もう一方を拭う。
 丁寧に、妹の顔を拭っていく。
「次は――」
 小夜は頷くと、そっと布団に横たわった。
「大丈夫か…?」
「はい」
 毛布から片腕を出した。新たに出した蒸しタオルで指先から指の間、手首から肘にかけて拭いていく。二の腕を拭き脇の下は丁寧に。
 細い腕。年齢としては年頃だが、小夜の腕を見る限りその面影はない。幼い腕、ではない。細い。肉があまり付いていないのだ。
 両の腕を拭いて、小夜の顔を見た。
 貴一の視線に、小夜は微笑む。その顔はわずかに紅潮している。温かいタオルのせいで血行が良くなったためではないことを貴一は解かっていた。

 恥ずかしがりながら小夜は体にかけていた毛布を上半身分だけ剥ぐ。
 貴一は三枚目の蒸しタオルを当ててゆっくりと、タオルを肌から離さないように気を付けながら拭いていく。
 両親が死んでこの役目が回ってきた初めの頃は妹の身体を直視するのはさすがに憚られていた。しかし、今では小夜の体調管理には必要不可欠なことだと思っている。
 白すぎるからだ。細く、肉付きもあまり良いとは言えないがそれでもそれなりに女性として発育は始めている。
「ぁ……」
 小夜の吐息が聞こえる。
「寒くなったら、言えよ」
「……はい……」
 あらかじめ部屋はヒーターで暖めてある。しかし、それでも気を配っておいて損はない。
 乳房の下を入念に拭いて、さっと毛布をかけてやる。
 それから腹部、背部と続いて最後に足。
「―――」
 腕に輪をかけて細い足。屋敷内という限られた空間しか動けない、それが毎日ならまだいいのだろうが、日によっては一日中寝たきりということもある。
 その足を見るたびに、貴一の胸が痛む。
 ――もしかしたらもっと、どうにか出来たかもしれない。そんな思いが湧いてくる。
 足の裏を多少力を入れて拭うと、小夜がくすぐったそうに笑った。
「お兄様……」
「ぁ…すまん」
「いいえ…。お兄様は、お上手ですから」
「――そうか。さぁ、着物を」
 手早く衣を着せる。
「ありがとうございます……、おかげで気持ち良くなりました」
 血色の良くなった顔で小夜が微笑む。
「それなら、良かった」
「お兄様……」
「ん?」
「髪…、後で梳いて下さいね」
「今日はもう寝たほうがいい」
「いいえ。あれをして下さらないと寝ようにも寝られません」
「……仕方ないな。これを片付けてくるから、それまで待っていていくれ」
「はい」
 小夜は嬉しそうに目を細めた。

 漆黒の櫛でより黒い髪を梳く。
 貴一の手にはまったく抵抗がかからない。
 腰まである髪を梳きながら、また思いを込める。
 ――どうか小夜がもっと生きられますように。
 貴一は目を瞑り、そっと髪を梳っていく。
「ねえ…お兄様……」
 静かな小夜の声に、まぶたが上がる。
「なんだ?」
「お願いがあるんです……」
「――?言ってみろ、叶えてやる」
 貴一は心の中で小さく喜んだ。やっと、小夜が自分の望みを言ってくれる。しかし、心の隅では、何かを恐れていた。
 そして、その予感は間違っていなかったと貴一は思い知らされる。
「私の骨を、あの金木犀の下に埋めてください」
「―――――――――」
 車の通る音すらしない静かな夜。静か過ぎる夜にはハッキリとした言葉だった。
 小夜は振り返らない。貴一は髪を梳いて動きを止めていた。
「約束、してもらえますか?」
 貴一は自分が予想以上に冷静じゃないことに更に動揺する。
 なんとか落ち着こうと目を瞑る。暗い世界の向こうで、小夜が答えを期待しているのが解かる。
「――――――ああ。約束する」
 ようやく紡げた言葉は掠れていた。
 必死に押さえつけていたはずの震えが、貴一の指先を少しずつ侵蝕していく。
 たん、と小さな音を立てて漆塗りの黒櫛が手から落ちる。
 その音に気付いたように小夜が振り向いた。身体ごと貴一に向き直る。
 貴一は震えを押さえきれず、そのまま両の手をついた。
 小夜の顔を見ることが出来ない。
「――俺は」
 掠れて震える貴一の低い声。
 その様子を小夜がどのような目で見ているかどのような表情で見ているか、貴一は知ることが出来ない。
「俺は、お前に他に何かしてやることが出来ないのか……?」
「――お兄様……、私は、お兄様の妹で良かったと思っています……」
 優しくかけられる言葉に、貴一の目から涙が零れ落ちた。
「俺は…、俺は、お前の兄として…、俺は―――――」
 すっと、華奢な小夜の手が震える貴一の肩に触れる。
 そのまま静かに抱きしめられた。
「お兄様……」
「ぅ…っ――くっ…ぅぁ……ぁぁ………っ!」
 小夜は初めて見るであろう兄の激しい嗚咽にただ優しく微笑み、その身体を自らの身体で抱きしめるだけだった。
 貴一はひとしきり泣いたあと、逆に小夜の身体を抱きしめた。
 細く小さな身体だが、確かにまだ温かい。
 それをより実感したくて腕に込める力が強くなる。
「すまない……。俺は、お前に何もしてやれなかった………」
 そっと、小夜が抱き返してくる。
「いいえ……。私はお兄様がそばにいてくださっただけで……それだけで幸せでした。私のような者のために心を砕いていただけただけでも過ぎた幸せです……」
 ここに来てはじめて、小夜の声に涙が混じった。しかし、その声は明るい。
「私は…小夜は、お兄様の優しさが欲しかっただけです……もう十分、いただきましたから。――もう小夜は…思い残すことはありません……」
 小夜は真珠のような涙を流しながら今までで一番の、明るい笑顔を見せた。
「――――小夜……」
 貴一は、もう一度涙を流し、小夜の小さく赤い唇に口付けをした。





 それから数日後、貴一は小夜の部屋を整理していた。敷かれることのなくなった布団は仕舞いこまれ、電気ヒーターも場所を変えて今は貴一の部屋にある。たったそれだけで部屋が淋しくなっていた。
 もうこの部屋には以前のように少女はいない。
 小夜は今は静かに、この部屋の窓から見える庭の木の下、新たに植えられた金木犀の木の下に永眠っている。
「…………」
 遺品を整理しながら心に浮かぶ問。
 ――俺は小夜に何をしてやれたのか。
 それは小夜がいなくなってからも際限なく繰り返される問。
『私はお兄様がそばにいてくださっただけで……それだけで幸せでした』
 泣く貴一を慰めるようにかけられた言葉。貴一にはそれが嘘だとは思えない。しかし――、とも思う。
 最後まで多くを望まなかった小夜。あの日の翌朝、小夜は眠るようにして息を引き取った。苦しんだ様子はない、幸せそうな顔だったのを良く覚えている。
 ――この問は、あるいは小夜への未練か。
「………………」
 小夜の読んでいた小説を大事に片付け、文机を部屋の隅に移動させようとした時、何か白い物が畳の上に落ちた。
「?」
 文机から手を離し、落ちたそれを拾い上げる。
 白い封筒――貴一宛の手紙だった。勿論、差出人は、小夜である。
 その手が震えた。
 遺書であることを理解すると、その場に座り丁寧に封を切る。
 出てきたのは便箋一枚。

『貴一お兄様、元気にしていらっしゃいますでしょうか。私は、遺書という物は随分と前から書こうと思っていましたが、実際にこうして筆を取ったのは死が目前に迫ってからで自分の筆不精さを少々意外に思っております。
 私は優しいお兄様の妹として産まれたことを誇りに思っています。小さい頃から迷惑ばかりかけてきましたが、それでも嫌な顔一つせずお世話していただけて感謝しています。ずっと一緒にいてくださって大変嬉しく思います。
 ですが、一つだけ心配があります。それは、お兄様の今後です。お兄様は正直な人。ですが、狭い部屋の中からの勝手な邪推ではありますが、恐らくお兄様の性格を誤解していらっしゃる方もいると思います。そのせいでどんどん汚されて、笑えなくなっています。その様子はまるで、金木犀のよう。だから、どうかお願いです。汚されるお兄様の心を綺麗にしてくださる良い女性を探してください。そして、笑ってください。
 最後になりますが、きっとお兄様は幸せに生きてくださることを確信しています。そして、有り難うございました。 小夜』

 その手紙を読み終わった貴一の口がわずかに笑った。
「―――っ」
 何かをこらえるような小さな引きつったような笑みと共に、涙がこぼれる。
 この遺書を読んではもう、あの問も繰り返されなかった。
 ――俺は何一つ、してやれなかったと思っていた。しかし、そうではなかったらしい。それがたとえ、本人にやった実感はなくとも。
「だけど……お前は、本当に良く出来た妹だよ」
 兄は妹の眠る金木犀を見詰めながら涙を流した。
 
 
 


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